リンク

無料ブログはココログ

« 皆既月食 | トップページ | 岡山城 »

2014年11月 2日 (日)

備中松山城

備中松山城に行ってきました。

岡山県の高梁市にあるお城です。備中と付くのは他の松山城と区別するためですね。
松山城と名付くお城は他にも現存天守がある伊予松山城や武蔵松山城等々日本各地にあります。
最近、雲海に浮かぶ「天空の城」として有名になった備後竹田城が有名になりましたね。備中松山城も同じ様に雲海に浮かびます。そんな備中松山城はぜひ行きたいと思っていたので今回は凄く楽しみでした。

備中松山城の概略

Photo_2 備中松山城は臥牛山の山上に築かれた山城です。臥牛山の尾根には下太鼓の丸、中太鼓の丸、小松山城、相畑城戸、天神の丸、大松山城等々多数の城郭・砦があります。最初に築かれたのは大松山城で秋庭氏が鎌倉時代の1240年頃に築いたそうです。その後、室町時代の高橋氏の時代に子松山城まで城域が拡張しました。
戦国時代の三村氏時代には小松山城が本城となり全山に天神の丸、太鼓の丸等々の砦が造られ松山城は最大規模まで拡大したそうです。
江戸時代になり小堀氏により毛利氏時代のお城、尾根小屋(居館)の修築が行われ水谷氏の時代の修築で現在の備中松山の姿が完成したようです。小松山城を御山城と呼び、御根小屋を御城と呼び区別していたそうです。登城とは御根小屋にする事だったとの話です。

明治の廃城令で御根小屋は取り壊され監獄になりその後に学校が建っております。
山上のお城は農林省に山小屋とみなされ放置され荒れるにまかせていたのですが昭和四年から修復が始まり現在にいたります。

  • 大松山城:約470m
  • 天神の丸:役480m
  • 相畑城戸:約440m
  • 小松山城:約430m
  • 中太鼓の丸:約355m
  • 下太鼓の丸:約320m

各御城の標高です。天神の丸が最高所になります。上の略図では解りづらいですね(汗。略図はざっと描きましたので少々雑で御座います。すいません。

Photo 現在、備中松山城と呼ばれる城郭は小松山城です。総石垣で築かれ10棟の平櫓と1棟の二重櫓、2棟の櫓門、5棟の門そして天守で守られております。三の丸、厩曲輪、二の丸、本丸と段状に高くなり一段低い後曲輪で構成された階郭式、連郭式の近世山城です。

歴代城主
お城の看板にありましたの引用させて頂きます。

時代区分期間城主
鎌倉時代 1240~1330 秋庭氏
室町時代 南北朝 1331~1355 高橋氏
1355~1362 高氏
1362~1509 秋庭氏
戦国時代
1509~1533 上野氏
1533~1571 庄氏
1571~1575 三村氏
安土桃山時代 1575~1600 天野・桂氏(毛利氏の城代)
江戸時代 1600~1617 小堀氏(奉行)
1617~1641 池田氏
1641~1642 水野氏(定番)
1642~1693 水谷氏
1694~1695 浅野氏(定番)
1695~1711 安藤氏
1711~1744 石川氏
1744~1868 板倉氏
明治時代 1868~1869 池田氏(定番)
1869~1871 板倉氏
1873 廃城

城主を表で並べるだけではどうか思うので補足を適当に。
興味の無い方は飛ばしちゃってください

■鎌倉時代
秋庭氏
臥牛山の大松山に始めて城を築いたのは1240年頃で秋庭三郎重信です。秋庭氏は鎌倉幕府の有力な御家人であある坂東八平氏の一つ三浦氏の一族ですね。秋庭氏は義継流(源義朝の後ろ盾になった三浦義明の次弟)で承久の乱の戦功で備中国有漢郡の地頭職に補されました。いわゆる新補地頭ですね。

■室町時代
・高橋氏
鎌倉時代末期の1331年に秋庭氏の後に備後三吉氏の一族の高橋九郎左衛門宗康が大松山城に入城しました。ざっと調べた限りでは備後三吉氏と高橋氏の繋がりが解りませんでした・・うむ。
高橋氏は紀氏または大宅氏の一族です。高橋光国の代に備中に移封されたとWikipedia先生にあるけど高橋光国が高橋九郎左衛門宗康なのだろうか。高橋光国は元弘の乱で六波羅探題が陥落した時に北条時仲に従い敗走するけど近江で自害してますね。備中松山城は国光が子の光義が継ぎましたが光義の子の師光の代に観応の攪乱で石見に転封されました。

・高氏
足利氏の根本被官であり執事として有名な高氏ですね。
1355年に高橋氏の変わりに入城したのが高越後守師秀です。師秀は我侭で暴慢だったため1362年に城を追われたと云われております。

・秋庭氏
1362年に高氏の執事であった秋庭備中守重明が城主になりました。秋庭氏の復活ですが応仁の乱のあおりを受けて1509年に城から降りて土着したようです。

・上野氏
足利一門の上野兵部少輔頼久です。上野氏は足利氏四代目の泰氏の子から始まります。
1509年に入城し1533年に尼子氏の支援を受けた猿掛城主庄備中守元資に大松山・小松山城を攻められ上野氏は滅亡します。

・庄氏
庄氏は武蔵七党の一つ児玉党の嫡流で治承・寿永の乱の一の谷の合戦で平重衝を生け捕った恩賞で備後国に領地を得たそうです。元資の代に備中で勢力を拡大しました。1571年に高資・勝資の代に勝資が出陣中に毛利氏、三村氏の強襲を受け高資が守る備中松山城は陥落しました。

・三村氏
尼子支配下の勢力が多かった備中で毛利氏につく事で備中で勢力を拡大し備中松山城の城主になるが宇喜多と抗争で家親は宇喜多氏に殺害される。その後、毛利氏と宇喜多氏が講和するがそれに納得できない家親の子、元親は東から伸張してきた織田信長に接近し毛利から離反する事になります。当然、毛利氏の進攻を受け備中松山城は陥落し1575年に三村氏は滅亡しました。今年の大河「軍師官兵衛」の序盤辺りの話ですね。

■安土桃山時代
・天野・桂氏(毛利氏の城代)
豊臣時代は城主もいず廃城同然となっていたそうでうす。

■江戸時代
・小堀氏
小堀正次が備中国奉行として赴任してきたそうですが急死したので子供の政一作助が継いだそうです。作助は小堀遠州の名の方が有名ですね。城下町と荒れていた城を修築し御根小屋を修築し後の松山城の原型を造ったのが小堀遠州だそうです。

・水谷氏(みずのやし)
水谷伊勢守勝隆、勝宗、勝美の三代で城下町と城の修築、尾根に居館である尾根小屋の修築を行ったそうです。二代目勝宗が1681年から松山城の大改修を行い天守、二重櫓、大手門等々を建設し備中松山城を完成させました。

備中の要衝故に多彩な勢力が入れ替わり立ち代りして調べていて中々楽しかったです。
戦国時代は庄氏の城攻めにより上野氏の滅亡と落城。北の尼子氏、西の宇喜多氏、毛利氏、東から織田氏とせめぎ合いの中で毛利氏による城攻めで落城と三村氏の滅亡があり2度の落城を経験した波乱万丈なお城ですね。

Dsc_0157 早朝に備中高梁駅を降りると雲っておりました。天気予報では一日快晴だったので、どうしたものかと思ったのですが霧だったようです。ふいご峠行きの乗合タクシーまで時間があったので駅前の喫茶店時間をつぶしてたのですが店主が色々と話を聞かせてくれました。
天気が快晴で朝の気温が低い日は霧が出るそうです。雲海に浮かぶ松山城も見られるとの事。
タクシーの時間がきて喫茶店から出ると霧が引いて快晴になってました。写真は備中高梁駅近くから見上げた臥牛山上の天守です。中々高いですね。

Dsc_0158 乗合タクシーでふいご峠に来ました。時間的な都合で下から登るのは諦めました。ふいご峠は臥牛山の7合目でお城まで15分~20分程度登る事になります。下から登ると大体1時間程度掛るとの話。土日や行楽シーズンはバスも運行してるそうですが平日ですので乗り合いタクシーです。

Dsc_0159 道は岩がゴツゴツしていて良くありません。登るには靴をしっかり選んだ方が良いと思われます。

Dsc_0163

Dsc_0165 中太鼓の丸まで登りました。石垣が残っております。太鼓櫓が建っていたのでしょうかね。 カメラと三脚その他諸々5kg程度をを背負ってきたのですが中々大変でした。運動不足を実感します。

Dsc_0168 通信手段は太鼓を用いていたそうです。御根小屋と御山城とを太鼓の丸で中継しつつ連絡していたそうです。

Dsc_0170 石垣から見た高梁城下です。なかなかの見晴らしですね。この中太鼓の丸は戦略上重要な拠点だったそうですよ。

Dsc_0172 まだまだ登ります。最後の階段はきつかったです。暑くなかったけど汗だくになりました。

Dsc_0186 大手門に辿りつきました。山頂に現れる石垣のお城は少し感動でした。

Dsc_0192 大手門脇の立派な岩盤上に築かれた少し有名な石垣。圧倒されます。
長年も石垣を支えてきた岩盤ですが石垣の重さと樹木の成長で岩に亀裂が入ってきているそうです。崩落を警戒して計測器で監視しているとか。

Dsc_0193 大手御門の櫓門跡を過ぎて右に櫓門に上がる階段です。階段左の石垣上に上番所がありました。野面積みの石垣も良いですね。

Dsc_0194 大手御門は左に折れる喰い違い虎口です。左は櫓門の石垣で階段右の台上に足軽箱番所がありました。

Dsc_0195 大手御門の櫓門跡

Dsc_0198 大手御門奥にある二の平櫓跡

Dsc_0199

Dsc_0202

Dsc_0204 大手御門の喰違虎口を過ぎると現存の土塀が左側に続きます。厚みのある土塀ですね。現存だけあって歴史を感じ良い雰囲気です。重要文化財です。

Dsc_0205 三の丸です。手前に足軽番所があり奥に上番所がありました。スペースを取れない山城だけあって狭いですね。

Dsc_0207 現存土塀の先に三の平櫓跡があります。櫓は守りの拠点であり兵糧や武器を保管しておく場所です。山頂の狭い敷地に天守を含めて16の櫓が立っていて結構な密度です。
本気の守りを固めてますな。

Dsc_0214 三の丸から上の段へ上がります。

Dsc_0215 下を覗き込むとしっかり石垣が組まれてました。急峻な場所に石垣を築くのは大変だったんでしょうな。

Dsc_0217 黒門跡です。左の石垣が四の平櫓で右の石垣が厩曲輪の石垣です。その間を黒門がありました。

Dsc_0220 四の平櫓跡

Dsc_0221 厩曲輪です。往時は土塀と門で区切ってありました。文字通り馬小屋があったのでしょうか。そういえば山城の岐阜城にも馬場跡がありますね。

Dsc_0223 平日だったので人が少ないのも良かったです。人が少ないと言っても結構登ってくる人は多かったです。休日だともっと多いのでしょうかね。

Dsc_0224 厩曲輪から見下ろした三の丸です。木々が色づき始めてました。もう少し遅く来れば紅葉のお城を見られたのかな。

Dsc_0227 厩曲輪から出て右に進むと二の丸へ上がる階段です。

Dsc_0233 二の櫓門跡です。左の石垣が櫓門を乗せた名残だと思ったのですが奥側に石垣がありませんね。疑問に思ったのですが備中松山城の冊子にあるお城の模型や平面図を見ると楼門型の櫓門が建っていたみたいですね。楼門型とは弘前城に現存して見る事が出来る独立して建つ櫓門です。

Dsc_0253 二の丸に入ると天守を拝む事が出来ます。この構図は備中松山城の写真でよく見ますね。左から六の平櫓(復元)、五の平櫓(復元)そして天守です。櫓2つを従える天守の絵は迫力がありますな。
現在は跡ですが六の平櫓の左に七の平櫓が建っておりました。

Dsc_0294 七の平櫓跡です。五、六、七の平櫓で本丸の正面を厳重に守ってますね。

Dsc_0253 復元された五の平櫓の石落しは年季が入ってますね。本物でしょうか

Dsc_0254 六の平櫓で入場券を買えます。

Dsc_0255 六の平櫓と五の平櫓に挟まれた本丸南御門を抜けると遂に本丸です。

Dsc_0257 ようやく本丸の天守に辿り着きました。快晴で青空に天守が凄く映えます。ここまで登ってきた苦労も報われます。七合目までタクシーでしたが(汗)。

Dsc_0259 備中松山城の重要文化財の天守です。二重二階、層等型の複合天守です(写真左方(西北)の一段下がった部分は付櫓なので重数にはカウントされません)。そして一番高い標高にある現存天守でもあります。
現存天守の中では高さ11mで一番小さいですが付櫓のおかげか三重に見え立派に見えます。入母屋屋根の付櫓が写真右方(東南側)と天守裏側(東北側)にも突出しているのも複雑な外見になって小ささを感じさせない感じです。一重目正面の大きな出窓の唐破風と石落しが貫禄を出してますね。二重目も小屋根がある縦連子の折れ曲り出窓と見所も多いです。岩盤を上手く使って石垣を構築しているのも魅力的です。

Dsc_0262 写真左側の階段を登った所に八の平櫓があり往時はそこが天守の入口でした。八の平櫓と天守の付櫓の間は渡り廊下(多聞櫓みたいな感じ)で繋がっておりました。
八の平櫓と渡り廊下が残ってれば天守がもっと見栄えが良くなったかもしれません。

Dsc_0271 八の平櫓跡

Dsc_0270 渡り廊下跡

Dsc_0272 付櫓内部です。階段を登れば天守です。天守側の壁には下見板まで貼ってあります。あくまでも天守とは別で付櫓だと主張しているみたいで面白いです。
この付櫓はいかにも建て増しな感じですね。天守が創建された当初はこの付櫓は無かったのかもしれません。上の歴代城主に天守は水谷氏時代に創建されたと書いたけど小堀氏が天守を築造し水谷勝宗が改修し現在の姿になったとの説もあります。小堀氏が建てた時は2層のシンプルな層等型だったけど水谷勝宗が付櫓を3つを建て増ししたんじゃないかなんて妄想が沸いてきます。

Dsc_0274 付櫓の石落し

Dsc_0276 天守裏側の付櫓の天井です。始めて見た組方なので撮りました。

Dsc_0277 天守1階には囲炉裏がありますが火気厳禁なので使われた事が殆ど無いとか。

Dsc_0278 天守2階の御社壇

Dsc_0265 二の丸へ続く本丸東御門(復元)

Dsc_0279 本丸東御門脇の階段を登ると天守の裏側を通って腕木御門、二重櫓の方面へ向かう事が出来ます。写真は天守裏側(北東側)です。入母屋造りの突出した付櫓です。

Dsc_0284 二の丸と繋がる腕木御門(復元)

Dsc_0287 天守の裏側にある現存で重要文化財の二重櫓です。平櫓が多い松山城の中では唯一の多層の櫓です。

Dsc_0295 本丸から二の丸に下りて本丸下の腰曲輪を後曲輪方面に向かいます。
石垣上の登っていく土塀が良い感じ。

Dsc_0316 二の丸から見た本丸東御門。

Dsc_0296 石垣から木が生えている様に見えますね。

Dsc_0298 回って見ると自然の地形を残して石垣を組んだのでしょうね。立派な木です。

Dsc_0299 搦手門跡に下る階段です。大手門側に道が繋がってるそうですが行く時間はありませんでした。帰りのタクシーの時間が近付いてきたのでここらで急ぎ始めてます。

Dsc_0305 二重櫓を下から仰ぎます。荒々しい岩盤にのる石垣が堪らないです。歴史を感じる現存の二重櫓も素晴らしい。二重目の窓が小屋根付縦連子出窓ですね。右の階段を登ると後曲輪です。

Dsc_0309 後曲輪と九の平櫓跡です。水の手側からの浸入に備える曲輪です。

Dsc_0303 十の平櫓跡

Dsc_0312 水の手門跡です。ここで小松山城は終ります。

Dsc_0314 この先は相畑城戸、天神の丸、大松山城に続きますが、この写真を撮った時刻は12時54分です。上りのタクシーが9時50分で下りのタクシーは13時10分の予約でした。 ふいご峠に急いで引き返さなくてはなりません。武家屋敷や高梁の街も見たかったのでこの時間にしたのですから仕方が無いですね。後ろ髪引かれる思いで引き返しました。

急いで下ったら大体13時10分近くにふいご峠に着きタクシーに間に合いました。
予定では早めにふいご峠に下って下太鼓の丸も見るつもりでしたがそれすら叶わず。

行き帰りと同じタクシーになった人と話たのですがその人は大松山城の方まで行ったそうです。羨ましい・・まぁ三脚広げて悠長に写真を撮ってれば時間はあっという間に過ぎますね。

もう一度、備中松山城に行きたいと思ってます。難しいだろうけど雲海に浮かぶ松山城も見たいし見られなかった相畑城戸、天神の丸、大松山城も見たいです。そして今度は乗合タクシーを使わずに下から登ってもみたいですね。

とても雰囲気が良いお城だったので是非もう一度行きたいと思います!!
備中松山城はオススメのお城です

« 皆既月食 | トップページ | 岡山城 »

お城」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/563218/60559116

この記事へのトラックバック一覧です: 備中松山城:

« 皆既月食 | トップページ | 岡山城 »

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

お城めぐり

最近のトラックバック