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歴史

2016年8月27日 (土)

大阪旅行 その1 適塾

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大阪旅行に行ってきました。勿論メインは大阪城でしたがお城を見た後には道頓堀です。有名なグリコの看板を見ました。観光客でいっぱいです。自分もその一人ですが!!

大阪は地下鉄の切符を買う券売機から苦戦をしたりエスカレーターの乗り方の風習(左側を空け右に寄る)の違いを感じたり聞こえてくる言葉が全部関西弁だったり中国韓国人だらけ(東京も多いけど更に多い)だったり色々と新鮮でしたね。

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大阪に行ったら絶対に行きたいと思っていた適塾です。

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正式(?)には適々斎塾です。江戸時代末期にあった蘭学塾です。

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東の順天堂、西の適塾とまで言われた名高い塾でした。

順天堂は佐藤泰然が開いた上総(現在の千葉県)佐倉に在った蘭方医学の塾で現在の順天堂大学の前身です。

適塾は緒方洪庵が開いた蘭学の塾で現在の大阪大学医学部や慶應義塾大学の源流になるそうです。

Dsc_7887_00011 この方が適塾を開いた緒方洪庵さんです。
江戸後期の武士、医師で足守藩士です。足守藩は現在の岡山県にありました。
父が大阪に転勤になった為に大阪に移りそこで中天游(なか てんゆう)の塾に入り蘭方医学を学びました。

余談ですが中天游は有名な大槻玄沢の弟子で玄沢の塾である芝蘭堂出身です。更に大槻玄沢の弟子である稲村三伯や橋本宗吉に師事しました。大槻玄沢は解体新書で有名な前野良沢の弟子で解体新書の翻訳にも携わりました。稲村三伯は蘭和辞書のハルマ和解を著した事で有名ですね。

大阪で蘭学を学んだ緒方洪庵は江戸に出て坪井信道や宇田川玄真を師事、長崎に出てオランダ人医師のニーマンに医学を学んだりしました。

大阪に戻り瓦町に滴々斎塾を開くが手狭になり現在の位置に移りました。

Dsc_7874_00003 医者・医学者としては牛痘種痘法(天然痘の予防接種。洪庵も子供の頃天然痘を患ってる)を促進したりコレラが流行った時は予防や対策を広めたり医学の発展に努めました。

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教育者としては自由に学習させていた様で必ずしも蘭学を医学に限らせてはいなかったみたいですね。時世柄、兵学等を学ぶ塾生もいて自由だったそうです。

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後年、幕府の要請で奥医師兼西洋医学所頭取になり江戸に移ります。大出世ですね。
しかし喀血による窒息で文久三年(1863)54歳で亡くなりました。

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適塾の出身者は幕末・明治に活躍しました。
幕末・戊辰の戦争で活躍した長州の大村益次郎、慶應義塾大学創始者の福沢諭吉、幕府軍で活躍した大鳥慶介、福井藩の橋本佐内等々多彩な人材を輩出しました。
手塚治虫が曾孫な手塚良仙も適塾出身ですね。

Dsc_7882_00008 急な階段を登り

Dsc_7885_00010 女中部屋、ズーフ部屋を過ぎると塾生達が寄宿した部屋になります。一人一畳のスペースが与えられるそうで一冊ある和蘭辞書のズーフハルマを使い必死に勉強したんでしょうね。
有名なズーフハルマも展示されておりました。オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフが著作した蘭和辞書です。パネルや展示品の撮影は出来ないので撮れなかったですがね。

行きたいと思っていた適塾に行けて感無量でした。
佐倉順天堂は佐倉に行ったときに見る予定だったけど休館で残念だったから再び行こうと思いましたよ。

2016年4月10日 (日)

松本城と桜

Dsc_4795 城と桜が見たくて松本城まで行ってきましたよ。天気はまぁまぁ良かったですね。
遠く南アルプスまで見えております。

Dsc_4728 桜は散り始めてる木もあったけど概ね満開でした。気温も昼過ぎには上着を着るには暑い位でしたね。

Dsc_4731 このブログでの松本城は4回目の登城になります。

Dsc_5101 でも桜の季節に来るのは初めてですね。去年は丸岡城福井城で桜を見ました。松本城の桜もとても綺麗でした。やはり城と桜の相性は良いですね。

ではここから松本城と桜をお楽しみください。

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Dsc_5093 以上、松本城と桜でした。

今回、後回しにしてきた松本城三の丸の虎口回りと堀を見に行きました。
松本城の輪郭式悌郭式の縄張りでして現在、三の丸は堀と1つの枡形虎口と4つの馬出しで守られておりました。

東門跡
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馬出し虎口とは出入り口を円月状(丸馬出し)や角状(角馬出し)に堀を前面に土塁や石垣で塞いだ形状の構造の虎口でございます。攻守共に優れた虎口で東国で多く見られますね。
東門は北側(写真の絵図右側)は三の丸堀に接続されているので橋が架かってます。
どちらかと言えば角馬出し的な見た目で三の丸の馬出しの中では最大の規模。

三の丸堀
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Dsc_5038 三の丸の堀は市街地に殆ど消えましたが一部だけ残ってます。桜が綺麗ですね。

北門馬出跡
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三の丸北東の隅にある北門馬出跡です。丸馬出しですね。東門に次ぐ規模だとか。

北不明門跡(きたあかずのもん跡)
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搦手の門であり不浄門とも呼ばれたとか。閉切りの門でもっとも規模が小さかったそうです。丸馬出しですね。

西不明門
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なんだか削られてるみたいで読めない・・。ここにも丸馬出しがありました。

大手門跡
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枡形がありました。現在の道路もその影響でクランク状になってますね。

以上、三の丸の五つの虎口跡でした!

ご拝読ありがとうございました。

2016年3月27日 (日)

愛媛、香川、姫路旅行のはずだった・・

去年のシルバーウィークの旅行です。いつの間にやら6ヶ月!

愛媛県、香川県に旅行するのは2009年の2月以来でした。
再び行きたいと思い続けていた中、シルバーウィークで長期の休暇を取れたので懐かしい愛媛、香川そして姫路城に行こうと計画を立てました。勿論、前回行った松山城、宇和島城、大洲城、丸亀城そして前回行けなかった高松城にも登場する予定でした。

■音量注意 !!

前回はサンライズ瀬戸で往復したのですが今回はサンライズのチケットが取れませんでした。連休ですんで人気のチケットは中々とれませんね。仕事の都合で遅れたので宿を取るのも一苦労でした。
今回は新幹線で岡山まで行き、特急しおかぜに乗り換えて瀬戸内海を渡り愛媛県の松山市に着きました。正直、夜行以外で東京から愛媛県の松山まで電車で行くのはお勧め出来ませんね。7時間以上電車に乗っているのは苦痛です。休暇を早く確定出来れば飛行機を使いましたね。

早朝に家を出て松山市に着いたのは14痔過ぎだったかな。ホテルに荷物を預けて市内に繰り出しました。

Dsc_0511 最初に向かったのは秋山兄弟生誕地です。前回も来たので2回目です。

秋山兄弟を知ったのはやはり司馬遼太郎氏の坂の上の雲でした。それから色々と日露戦争に関する本を読んだりしましたね。一度目の松山への旅行も秋山兄弟、正岡子規関連の史跡を見る事が目的でした。

Dsc_0514 秋山好古陸軍大将の像です。松山藩士の貧しい御徒士の家の三男に生まれ苦学し明治維新後は師範学校を出て教員になるが軍人へと転進し陸軍士官学校へ入学。騎兵少尉になり日本帝国陸軍の騎兵を育て日露戦争では秋山支隊を率い満州を転戦し活躍しまし日本騎兵の父と呼ばれました。
戦後は元帥への叙任も断り地元の松山に戻り私立北予中学校の校長になり生涯を終えました。<br/> 豪放磊落な性格で最後の武士とも言われたそうですね。大将まで登りつめながらも校長に降下したのは珍しいそうで本人の希望だったそうです。最後まで教師だったのではと秋山兄弟生誕地でお聞きした話。尊敬しちゃいますね。

Dsc_0523 秋山真之海軍中将の像です。秋山家の五男、末っ子に生まれました。親友に俳人の正岡子規がいます。上京した子規に影響され東京へ上京し大学予備門へ入り東京帝国大学への進学を目指しますが財政的な理由で断念し海軍兵学校へ入りました。日露戦争時は参謀として参戦しロシア海軍の撃滅に尽力し日本海海戦での勝利にも貢献しました。「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」は有名ですね。

Dsc_0530 秋山邸は空襲で焼けたそうで復元で南(入り口側)に建っていたそうです。秋山家は東京に移ったけど好古大将が高校の校長として赴任した時に再びこの家に住んだそうです。

Dsc_0542 移動は路面電車です。有名な坊ちゃん列車もありますよ。

Dsc_0548子規堂です。正岡家邸宅から菩提寺内に移築したのが始まりだそうですが焼失したので復元です。子規の直筆の原稿や遺品を見る事が出来ます。

Dsc_0556正岡家があった所でで子規の生誕地です。

場所はここら辺です。上級武士だったからか三の丸虎口近くの良い所ですね。

Dsc_0974 翌日は松山城に登城してから道後に向かいました。

Dsc_0975 前回は2月平日の旅行だったので人が少なかったけど流石シルバーウィークですね。
人が多し

Dsc_0978 有名な道後温泉本館です。前回は道を挟んだ所に有るホテルに泊まったので毎日入りに来てました。今回はJR松山駅近くのホテルしか取れなかったのが残念です。人が多かったので諦めて椿の湯に入りました。

Dsc_1009 !?温泉に入った後にブラブラと写真を撮っていたら知らないお姉さんが撮って欲しいと猛アピールをしてましたので撮りました(;;;´Д`)。少しピンボケですね。申し訳なし

旅行3日目は宇和島大洲に向かいました。大洲から戻ると急に体調が悪くなり熱が出てる感じでした。予定では丸亀、高松に寄り姫路に入るはずでしたが諦めて宿をキャンセルし帰宅しましたつД`)・゚・。・゚゚・*:.。

自宅で体温を測ると39度!!。帰宅途中で行き倒れるかと思いました。

この旅の失敗で姫路城、丸亀城、高松城はリベンジする事になります。
ご拝読ありがとうございました。

2016年2月28日 (日)

大洲城

宇和島城を午前中に登城して午後に続いて大洲城です。

前回は2月の寒い雨の中の登城だったのと時間もあまり無かったので急いでの登城でした。今回もそこまで天気が良くなかったけれど雨は降らなかったので前回よりはマシでした。時間は今回もあまり無かったですが。いつかゆっくりと回ってみたいですね。

大洲城の概略 大洲城縄張り肱川の支流である久米川と肱川の合流点の地蔵ヶ嶽に築かれた平山城です。肱川の蛇行点を背にして本丸、二の丸、三の丸と曲輪を囲む典型的な悌郭式の縄張りです。西方は久米川と三の丸西の外堀、南西は高地、南東は三の丸東の外掘で囲った中々固そうな城です。

歴史

  • 元徳元年(1331)鎌倉時代の最末期に宇都宮氏の支族、宇都宮豊房が守護に任命され地蔵ヶ嶽(現大洲城)に地蔵ヶ嶽城を築城する。
  • 永禄十年(1576)毛利氏に侵攻により宇都宮豊綱は降伏。伊予宇都宮氏は滅亡する。
  • 天正十三年(1585)豊臣秀吉の四国攻めで小早川隆景に攻められ河野氏の家臣、大野直之は敗北。小早川隆景は伊予35万石で入封し大洲城は支城になる。
  • 天正十五年(1587)戸田勝隆が大洲7万石で入封。
  • 文禄四年(1595)藤堂高虎が宇和島・大洲8万石で入封。大洲城が近世城郭に改修が始まる。
  • 慶長十四年(1609)脇坂安治が5万3500石で入封。天守等が造られる。
  • 元和三年(1617)加藤貞安が入り大洲藩として江戸時代が終わるまで加藤氏が領主として続く。

肱川越しの大洲城

肱川越しの大洲城肱川越しに見るのも良い眺めです。初めて来た時はバスでJR大洲駅から城に向かったんだけどバス内から見た肱川越に見えた天守の美しさに興奮しましたね。
写真は橋上から撮影ですが土手に下りても中々良い写真スポットだと思います。
前回は雨だったけど今回は曇りでした。15時から晴れるとの予報だったので待っていたけど中々晴れず・・。

とりあえず太陽様が顔を出さないので現存の大洲城三の丸南隅櫓を先に見に行きます。
場所は分かりにくいので貼っておきます。市街地に埋もれた大洲城なので街中にポツリと櫓が建ってます。

お殿様公園 お殿様公園の中に三の丸南隅櫓はありました。前回は2月の寒い雨と時間が無く見に来れなかったのですよ。

大洲城三の丸南隅櫓 三の丸南隅櫓

現存の櫓で重要文化財です。現在は埋められた三の丸東側の外堀の石垣上に建つ隅櫓ですよ。

三の丸南隅櫓入り口

三の丸南隅櫓内部 なんと!中に入る事も出来ちゃいます。場所が場所だけに(分かりにくい)来る人も少ない(自分が来た時は一人しか見に来てなかった)のでゆっくり見られます。

南隅櫓 現在は三の丸東側の堀は埋め立てられ小学校の校庭になってるので下りる事は出来ません。水が張ってあったとしても下りられないですがね。

大洲市内から天守 三の丸南隅櫓を見終わって次の目的地に向かいます。途中で見えた天守。

肱川 肱川河畔に出ました。肱川は初冬に霧が川を下る肱川おろし(あらし)が有名ですね。鮎やうなぎも名物でして今回は昼食に鰻を食べました。美味しかったですよ。

大洲城苧綿櫓 苧綿櫓

肱川河畔に現存する重要文化財の芋綿櫓(おわたやぐら)です。

因みに場所はここ。

大洲城苧綿櫓02苧綿は当然 オワタ┗(^o^ )┓三 \(^o^)/オワタって意味では当然ない。
「苧」とはカラムシの事で古来から植物繊維を採る為に栽培されてきた植物のことだそうです。虫みたいな名前だけど虫でもない。衣類や紙、漁網にまで使用され越後縮、小千谷縮の原材料でもあるそうです(Wikipedia参考)。「綿」はよく分からないけどカラムシの葉の裏は綿毛が密集しているからでしょうかね。

大洲城苧綿櫓03 天保十四年(1843)再建です。昭和34年(1959)の解体修理で洪水対策で石垣を2.6m高くしたそうです。

大洲城苧綿櫓古写真 櫓の前にあるパネルの石垣を盛る前の写真。確かに石垣が低いけど高くしてるだけじゃなく全部積み直してる様にも見える。

大洲城苧綿櫓04 石垣の上にも行けます。結構高いうえに柵も無いので上がるなら気をつけた方がよいですよ。櫓の近くに行けるけど入る事はできません。

大洲城石垣本丸南の腰曲輪下の石垣。大洲市役所の裏にあります。

大洲城下台所 下台所

現存の重要文化財です。食料庫だったとの話。天守、櫓、御殿以外の建物が残ってるのは珍しいですよね。彦根城の馬屋位しか思いつかないな。構造も床が上げてるのは風を通す仕組みなのだろうか。食料庫だからですかね。面白いです。

大洲城御殿跡

大洲城御殿跡 二の丸御殿跡

表御殿と奥御殿に別れていたそうです。写真は奥御殿跡。

大洲城石垣 何とも言えない石垣。打ち込み接ぎ乱積みでいいのかな。本丸の石垣です。

大洲城御門番長屋 御門番長屋

名前のとおりに門番が詰めていた長屋を絵図を元に再建したそうです。横には仕切りの門が付属していたそうだ。

大洲城玉櫓跡 玉櫓跡

Dsc_1272北の丸から見た天守です。ここは天守と従える櫓を見える良スポットですが残念ながらトイレがありましてね・・。この写真の中央下に見える屋根がトイレなんですよ。

大洲城天守北側から うむ・・どうしてもトイレが入るんですね。

大洲城天守北側から

大洲城天守井戸丸から02 本丸(井戸丸)に着くとようやく晴れてきました。左が天守で右が高欄櫓です。
良い眺めです。

大洲城天守井戸丸から03大洲城の本丸は天守がある段(上の段と呼ばさせて頂きます)と井戸がある下段(井戸丸)と二段になっております。右の石垣は暗り門跡。往時は櫓門があって井戸丸から本丸上の段への最後の関門でした。この眺めも良いですね。

大洲城天守 高欄櫓 台所櫓 本丸(上の段)まで辿り着きました右から台所櫓、天守、高欄櫓です。
台所櫓は現存の重要文化財、天守は木造復元、高欄櫓は現存の重要文化財です。
往時は本丸上の段を天守、台所櫓、高欄櫓、暗り門の櫓門で囲う連立式天守でした。

大洲城天守 台所櫓下見板張りの唐破風、千鳥破風、比翼千鳥破風で飾った四重の層塔型天守です。木造で復元し平成十六年(2004)に完成しました。復元の資金や木材の寄付が多かった様ですね。我町の天守!素晴らしい。

木造復元といえば白河小峰城 で平成三年(1991)に復元完成だから大分早い。どちらも建築基準法に適合しないので許可を取り付けるのに苦労したそうです。名古屋城天守の立替を木造で復元するなんて話も出てますが、あの巨大天守に許可は出るんですかね。
ぜひ木造で復元してほしいと思ってますが。

大洲城天守内部

大洲城天守内部02 天守内部です。新築な感じで綺麗ですね。

大洲城天守内部03 二階まで吹き抜けになってます。

大洲城模型

大洲城模型02

大洲城模型03高欄櫓内にある大洲城の模型です。ちょっとデフォルメされてる感じですが雰囲気は分かります。

Dsc_1333 久々の大洲城でした。もっと見たいところがありますが松山に戻りました。
やはり1日1城がゆっくり見られた良いですね。また見に来たいと思います。

2016年1月24日 (日)

宇和島城

伊予松山城に続いて宇和島城です。

愛媛県の西南にある宇和島にあるお城で現存の天守があります。私は2度目の登城です。伊予松山城と同じで6年ぶりになります。6年前も伊予松山城→宇和島城→大洲城と回ったので今回も同じコースになりました。

■宇和島城の概略

  • 平安時代の天慶四年(941年)に藤原純友が板島に砦を築いた事が始まりと云われてます。歴史がありますね。藤原純友と言えば承平天慶の乱の一つ藤原純友の乱は有名です(もう一つは平将門の乱ですね)。
  • その後、鎌倉時代の嘉禎二年(1236)西園寺公経により砦が築かれ丸串城と呼ばれていたそうです。

  • 戦国時代に入ってからは板島丸串城と呼ばれ家藤監物により大友や長宗我部の侵攻に耐えたとの記録があります。家藤氏って何者でしょうかね。ちょっと調べた程度では出てこないですね。伊予の国人でしょうか。
  • 天正三年(1575)再び西園寺氏が入り西園寺宣久が板島丸串城に入り家藤監物は道免城へ帰城したそうだ。
  • 天正十三年(1585)豊臣秀吉が四国に侵攻し伊予国は小早川隆景に与えられる。丸串城は隆景の家臣が城代に入る。
  • 天正十五年(1587)小早川隆景は筑前国に移封になり大洲城の戸田氏の家臣が城代として入る。
  • 文禄四年(1595)藤堂高虎が宇和島7万石で入城する。

  • 慶長元年(1596)藤堂氏により改修が始まる
  • 慶長六年(1601)改修が終わり宇和島城となるが関ヶ原の合戦により藤堂高虎は移封。
  • 慶長十三年(1608)富田信高が入城するが慶長十八年1613年改易。幕府の直轄地になる。

  • 慶長十九年(1614)伊達秀宗(政宗の長男)が宇和島藩10万石で入城

その後は明治になるまで伊達氏の支配地になります。幕末には大村益次郎を招いて蒸気船を建造したり中々先進的な藩でしたね。これは城とは関係ないですね。

宇和島城縄張り_1703

宇和島城縄張り_1854_1863

宇和島城は海上にあった板島に築かれたお城です。左は元禄時代の城絵図で右が幕末の安政文久頃の幕末の城絵図です。地形を見れば元禄の頃でも城の周りを埋め立てている感じですが幕末になると島だった形跡は殆ど無くなりますね。現在 は更に埋め立てが進み海にすら面しておりません。

宇和島城縄張り 築城の名手、藤堂高虎が縄張りをしました。五角形の形は不等辺五角形と呼ばれ「空角の経始(あきかくのなわ)」は四角形と錯覚され1方面に自由度が生まれるカラクリがあります。

Dsc_1038_00001 宇和島駅を降りると南国的な風景。久々の宇和島です。松山駅から始発で着ました。

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Dsc_1041_00003 城に向かって歩いてると天守が見えます。麓から見ても前日に登った伊予松山城天守よりはだいぶ大きく見える。標高は80m程度で伊予松山城は132mです。

Dsc_1045_00004_2 城山北登山口から登ります。登山口は家老桑折氏武家長屋門が移築されてます。

Dsc_1052_00008_2	三の丸石垣

三の丸は内堀で囲われた曲輪で1676年まで御殿があったとか。その後は側室の休息所に使われ幕末の文久3年(1863)には調練所になったそうです。現在は市街地に埋もれております。

Dsc_1054_00009 右に進めば比較的勾配は楽だけど天守までは遠い。左に進めば天守まで近いけど急な階段です。左を選びました。前回も左を進んだので右にすればよかったな。大洲城にも行く予定だったので急いでいたんですけどね。

Dsc_1055_00010 がんがん登ります。思ったよりキツイ・・息も上がります。
前回登城時も少しきつかった記憶があるけど今回もっとキツイ・・体力が落ちたのかと思ったけど考えてみたらそれだけではなかった事に気付く。前回より持ち物が大分増えていたんですよね。

Dsc_1056_00011前回は一眼レフカメラなんて持ってなかったからかなり軽装だった。今回はD750と24-120と70-300、50mm短焦点と三脚が今回の持ち物でした。山を登るなら持ち物を減らすべきだったと途中で気付く。

しかし鬱蒼とした中に残る石垣が良い感じです。

Dsc_1063_00012井戸丸

この辺りに井戸丸御門があったはずです。

Dsc_1065_00013 奥の石垣上に井戸丸櫓がありました。

Dsc_1066_00014 井戸があるから井戸丸なんだろうな。深さ11m

Dsc_1068_00016 井戸丸を過ぎて更に登る。当日は9月の終わりにしては蒸し暑い。藪蚊寄って来ます。

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Dsc_1076_00019 この石段を登れば二の丸に到着。木も少なくなり明るくなります。

Dsc_1077_00020_2 振り返れば天守。宇和島駅に着いた頃は晴れてたけど雲が多くなってきたな・・。

Dsc_1084_00023 右の石垣上に櫛形門櫓、階段上に櫛形門、左の石垣上に北角櫓がありました。ここを登れば本丸です。

Dsc_1091_00028 宇和島城天守

ようやく辿り着きました独立式層塔型三層の現存の宇和島城天守です。藤堂氏の時代には望楼型の天守が建っていたそうですが伊達氏が入り寛文11年(1671)現在の天守が建てられました。

Dsc_1098_00029_2 岩盤上に建っているそうで、その岩盤に切石接の石垣を貼り天守台としているそうです。
何というかとてもシンプルな天守です。
午前中の撮影だけど見事に逆光だったな。あと本丸に着いたら雲が多くなっていて残念・・。撮影が目当てなら午後に行くのが無難かもしれない。

Dsc_1105_00031 石落しも狭間も無く平和な時代の天守だと言われていますが内部の連子窓下に火縄銃を掛ける様になっており銃撃戦はしっかりと考えられているとか。

Dsc_1111_00032 正面は三重目に軒唐破風だけどサイドは唐破風。

Dsc_1114_00033前回来たときも気になった後ろのツッカエ棒みたいな何か。ツッカエにしては細すぎるし何でしょうねこれ。

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Dsc_1122_00035 天守内部。障子戸が残る天守は宇和島城天守が唯一とか。

Dsc_1128_00036 二の丸から見た宇和島湾。良い複雑に入り組んだ良い眺め。

Dsc_1130_00037 本丸下の帯曲輪へ向かうのこの先か。見ての通り行けそうもない。

Dsc_1131_00038 雷門跡だったかな。急いで下ってたので覚えてない。

Dsc_1134_00039_2 現在は城山郷土館がある籐兵衛丸。長門丸に下ってから上り立ち門へ抜けるコースで帰ります。

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Dsc_1143_00044 代衛門丸の石垣。苔むした感じが良いですよ。

Dsc_1150_00047 式部丸の石垣。

Dsc_1152_00048_2 整備計画の看板ですが鳥瞰図は解かり易いからのせておきます。

Dsc_1154_00049 石段を下れば・・

Dsc_1158_00050_2現存する上り立ち門で終わります。

午後は大洲城に行くのでかなり急いでの登城でした。全体を回りたいですがね。いつかゆっくり回りに来れたらいいなぁと思いつつ宇和島城登城は終わりました。

2015年12月20日 (日)

松本城と奈良井宿

ブログのネタは貯まっているけど

時間が無く中々更新できないまほろばです。こんにちは|゚з゚)

宇和島城、大洲城、姫路城と撮り貯めてあります。
書かないとと思いつつも松本城を見たくなりブラっと行ってしまいました。
といっても11月21日ですんでもう1ヶ月も経つのか。

秋も終わりすっかり冬ですな。っていうか既に年末ですね。何を今更┐(´д`)┌ヤレヤレ

Dsc_2074_00001このブログで三度目の登城の松本城天守です。
松本城は地元からスーパーあずさに乗って2時間半弱で御座います。近いような遠いような・・いや十分遠いかな。それでも一番近い現存天守です。

Dsc_2084 姫路城天守を見たら妙に松本城を見たくなったんですよ。
あと新カメラで松本城を撮りたいと思ったというのもあります。

Dsc_2090_00004姫路城天守は華やかで良かったな。でも松本城の無骨さもやっぱり良いっすね。

Dsc_2116_00005 そういえば松本市と姫路市って姉妹都市を結んでた気が。お城繋がりですかね。

Dsc_2141_00006 看板があって松江城の国宝登録の事も書いてありました。松本城の辰巳櫓と月見櫓を造ったその後に松江に転封になった松平直正は両城に関係があります。

Dsc_2163_00007 紅葉が残っていたけど松本は寒かったです。

今回の長野行きは奈良井宿に行く事も目的でした。

奈良井宿は中山道の宿場で現在は長野県の塩尻市にあります。
江戸時代に奈良井千軒と言われるほど栄えた宿場町です。
現在も古い町並みが保存されております。観光地として有名ですね。

Dsc_2195_00010 松本→奈良井は中央本線で50分弱程度です。が乗った時間の電車が悪かったのか1時間10分以上掛かりました。塩尻駅で30分近く止まるという・・12時18分松本発の電車ですがね。よく調べてから乗ったほうが良いですよ。

Dsc_2221_00014_2 奈良井に着いたら13時半で腹がペコちゃんでした。
焦るんじゃない俺はお腹が減っているだけなんだと急いで駅から近い蕎麦屋で蕎麦を食べたけど中々美味しかったです。流石、信州蕎麦所。

Dsc_2207_00012「うだつ」も上がってるし裕福だったんでしょう。同じ長野県の古い宿場町である海野宿とはまた趣が違います。

Dsc_2214_00013午後から雲が多くなり陽も少なく寒かったです。厚い上着が必要でした。
地元に帰ったらそこまで寒くなく標高の差を感じましたね。

Dsc_2243_00017 やっぱりこのタイムスリップ感が良いですね。地元も元宿場町ですが殆ど残ってないので羨ましい限り。

Dsc_2232_00015 でも古い町並みを残すのってもの凄く大変だそうですね。特に住んでる人が大変だと海野宿に行く時に乗ったタクシーのおじさんが言ってました。

Dsc_2187_00008 でもやっぱり末永く残して欲しいものですね。

Dsc_2242_00016 これは何かのおまじないでしょうかね。五平餅を食べたり喫茶店に入ったりブラブラ楽しいものですな。

Dsc_2251_00018 木曽の大橋
木造では有数の大きさの太鼓橋だとか。

ご拝読ありがとうございました。

2015年12月 5日 (土)

伊予松山城

伊予松山城に行ってきました。

2009年2月以来の登城で6年ぶりになりますな。
お城巡りを始めて初期のお城だから凄く印象に残ってるお城です。
白河小峰城と並んでお城巡りを始めるきっかけになったお城かもしれない。

伊予松山城城絵図何時もの通りに縄張りから。
今回も城絵図の看板があったので撮りました。文久年間作(1861~1684年)だから幕末に書かれた物ですね。

伊予松山城は勝山を一帯に築かれたお城です。山頂に本丸を築き南西の麓に二の丸、平地に濠で囲んだ三の丸を梯郭式に築いた平山城です。勝山の標高は132mもあり中々の高所。三大平山城の一つだそうです(他は津山城、姫路城)。
この高さになると山城に近い感じもしてきます。本丸は戦時に篭るだけって感じです。

特筆する所は登り石垣です。山頂の本丸と麓の二の丸の間を遮断する様に北と南の2線繋いでます。山の中腹を進まれて二の丸の背後からの襲撃を防ぐ事が目的でしょうか。

この城絵図で気づいたけど城の東南方面は塁か堀・濠で囲ってたんでしょうかね。
南東方面の登り口によっては無防備な所もあって疑問に思ってたけど囲ってるから大丈夫って感じだったのかな。

伊予松山城城絵図 鳥瞰図です。こっちの方が分かりやすいので載せておきます。
6年前に撮った看板で今回は見当たらなかったな。天保十三年に書かれた絵図を元にした絵図だから上の文久年間より少し前になります。

伊予松山城 本丸図 本丸の抜粋。赤文字が復元および現存の建物で青文字は跡。本壇は混みいってるのでここでは省略してます。復元も多いがなかなか雰囲気が良いですよ。
虎口は大手門、揚木戸門、艮門(うしとらもん)、乾門の四つ。中ノ門は虎口というか罠。

■伊予松山城の歴史の概略
・14世紀に伊予の国の守護の河野氏により湯築城(道後温泉近く)が築かれるが天正十三年(1585)に小早川隆景により開城。小早川氏に与えられるが転封、福嶋正則の支配地になるが国府山城に城を構える。

・関ヶ原の合戦後の慶長七年(1602)加藤嘉明が20万石で伊代を受領。現在の松山城の築城を開始し松山と地名を改める。

・寛永四年(1627)加藤氏は会津に転封になり会津の蒲生氏が松山城に入城。

・寛永十一年(1634)蒲生氏断絶により隣の大洲藩が城番になる。

・寛永十二年(1635)松平定行が松山を受領し松山城主へ。

・天明四年(1784)落雷による火災で天守を含む建物が焼失。

・安政元年(1854)再建。

伊予松山城ロープウェイ さてさて6年ぶりの登城です。三の丸を通って二の丸から登ったほうが気分は出るのだろうけど主に体力的温存的な理由(城巡りが続く予定だった)でリフトで登ります。
伊代松山城はロープウェイまで完備してるので年配者やお子様にも優しい平山城です。
しかしシルバーウィーク故にすし詰めである。

伊予松山城リフト三脚にカメラと荷物も多いうえに久しぶりのリフトで結構緊張しました(汗
リフトからも天守を拝めます。前回もリフトだったけど梅が咲いていて綺麗でした。
いつか全部の登り口から足で登ってみたいなんて思っていたり。
でも四国は遠いせいか一つの城に時間を掛けづらいのが現実。

Dsc_0598_00005 リフトを降りて階段を登るととすぐに本丸に着きます。なんて便利なんでしょう!
伊予松山城は確かミシュランで☆2つに認定されたんだったかな。この便利さもあるんだろうか。

巽櫓 階段を登り終えると目の前に高石垣がそびえ立ちます。右手に見えるのは巽櫓。伊予松山城の櫓は柿渋の下見板を塗った茶色の意匠で大体統一されております。中々見た目が渋い。

Dsc_0604_00009

Dsc_0612_00012打ち込み接の高石垣。伊予松山城は二の丸、本丸と高石垣が多いんですよ。
ここの石垣の高さは15mはありそうですね。2度目ですが圧倒されます。

Dsc_0603_00008 石垣上に見えるのは隠門続櫓で現存の重要文化財です。後に通ります。

Dsc_0621_00015 揚木戸門跡です。本丸南東からの虎口を守る門。本丸の小口は北に2箇所、南に二箇所で四箇所あります。

Dsc_0624_00016

Dsc_0635_00018 大手門跡。二の丸と繋がる道があります。絵図を見ると高麗門が建ってたのだろうか。

Dsc_0634_00017 大手門近くからの眺め。中央近くの櫓は太鼓櫓です。隙間に見えるのが天守。
中々良い眺め。

Dsc_0639_00020 中ノ門跡。正面に天守が見えるがこの門を突破しても本丸石垣下に出るだけで天守には辿り着けない。上の城絵図を見れば解るけど門の先に道も無いですね。罠の門だと言われてます。

Dsc_0638_00019 太鼓櫓を見上げる。上の方の石垣は新しめな感じ。

Dsc_0913_00124この折り返し太道が正解ルートて戸無門にむかいます。

Dsc_0646_00021

Dsc_0653_00023 戸無門。高麗門の形跡だけど戸が無い不思議な門。これも何かの引っ掛けか・・っ!?
戸を取り付けた形跡もなく昔から戸が無かったそうです。今は失われた縁起担ぎか風習でもあったのかもしれない。勿論、現存の重要文化財です。
青いビニールが掛かってるけど瓦が壊れたのかな。

Dsc_0684_00036 筒井門と筒井門西続櫓。伊予松山城最大の門で重要な櫓門です。1971年の復元。

Dsc_0654_00024この筒井門にも仕掛けがあります。ここから見ても見えないですが筒井門東続櫓の石垣の奥に回ると・・

Dsc_0663_00030なんともう一つ門が隠されてるではないですかっっっ!!

Dsc_0661_00029隠門と隠門続櫓。ちょっと大袈裟に驚いてみましたが中々面白い仕掛けですね。なんでも筒井門に殺到した敵兵をこの隠門からこっそりと出撃して敵の足背を急襲する為の門と云われております。現存の重要文化財です。

Dsc_0670_00031 裏から見た筒井門(右)と隠門(左)はこんな感じ。

Dsc_0679_00035筒井門を通ると待ってるのは櫓と土塀からの射撃ですね。

Dsc_0678_00034 太鼓櫓。多聞櫓に望楼を載せたような構造の櫓です。数枚上の写真にも出てきた櫓ですね。西方の石垣一段下と筒井門後方の腰曲輪を守る重要な櫓だと思われます見晴らしも良く名前の通り太鼓があったのでしょう。太鼓は戦闘時の合図でもありました。1972年復元。1973年復元

Dsc_0685_00037 太鼓櫓から太鼓門に続く塀。二十一カ所の狭間(さま)と2カ所の石落としを持ちます。殺(やる)気満々ですね。最後のこの腰曲輪が本丸南側の最後の守りです。本壇も一応ありますがね。

Dsc_0691_00040 巽櫓(たつみやぐら)。リフトを降りて最初に見えた櫓です。太鼓櫓と下の写真の太鼓門を通りこの巽櫓が最後の防衛線になります。ちょっと気で見づらいですね。1986年復元

Dsc_0687_00038 太鼓門。こちらは櫓門で太鼓櫓とセットの門です。この門を通れば天守のある本壇まですぐです。1973年復元

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2015年8月23日 (日)

足利氏発祥の地 其の二 樺崎八幡宮

足利氏発祥の地の其の二は樺崎八幡宮です。

今回、足利市に再び来る事になったのは前回、樺崎八幡宮に行く事が出来なかったからだったりします。 今回は下調べをしっかりしてから出かけました。

Dsc_0030 足利市駅の観光案内所でレンタルサイクルを借りて自転車で大体30分近くだったかな。GoogleMapだと6.3kmとあります。30℃超えの暑い中を汗だくになりながら樺崎八幡宮に到着です。電気アシストの自転車に始めて乗ったけど思った以上に楽で驚いた。

Dsc_0033 樺崎八幡宮は元々法界寺と云い足利氏の菩提寺でした。文治5年(1189)奥州合戦の戦勝祈願の為に2代足利義兼が創建、義兼が鑁阿と号した晩年の建久年間に生母菩提のために理人上人により開山とも云われております。八幡山の中腹に伽藍が建てられておりました。

Dsc_0036 足利義兼は晩年法界寺に隠棲し正治元年(1199)3月8日に入定後に子の義氏により八幡神を合祀されます。法界寺は戦国期の足利氏の衰亡と共に荒廃するが江戸時代に喜連川氏(足利氏の傍流)により再建されます・明治の神仏離合令により廃寺とされ現在は八幡宮だけが残ってます。

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Dsc_0046 樺崎八幡宮拝殿

天和年間(1681~1684)に再建されたそうです。幕に描かれた紋は丸に二つ引きで足利系の家が使用した紋ですね。宗家が使う足利二つ引紋ではないんだな。

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Dsc_0063 赤御堂(本殿)

足利義兼の廟所で拝殿の後方にあります。義兼の子義氏により父の霊をなぐさめる為に鑁阿寺の奥の院として建てられたとか。
発掘調査で本殿北側に赤御堂へ上がる石段が発見されたとか。という事は現在の赤御堂は南側に移ったという事なのかな。義兼は赤御堂の傍らで入定したとの話で本殿床下に義兼の墓標があるそうです。

Dsc_0051 入定とは真言密教の究極の修行の一つで所謂、即身仏になる事で生入定とも言います。40代半ばの若さで入定した事には色々と想像をしてしまいますね。晩年は高野山で修行しこの地で念仏三昧だったとの話もあります。そして入定したのは相婿の源頼朝が没した僅か2ヶ月後です。殉死に見えなくもないですね。
ただ義兼が入定した事は説の一つであり、この地で死去し葬られたとの話もあります。

Dsc_0023

Dsc_0022 多宝塔跡

1226年熱田弁僧都重弘により建立。

Dsc_0064

Dsc_0018 供養等覆屋跡

山の斜面の岩盤を削り3*3mの礎石建物が建てられていたそうでうす。お堂の中は義兼の子義氏の五輪塔が置かれていたとか。

Dsc_0025 中々風光明媚な所ですね。自転車で走っていても気持ち良かったな。暑かったけど。
奥州合戦後に奥州藤原氏が造った(毛越寺等とかの)浄土庭園の作庭が奥州帰りの御家人の間で流行ったとか。法界寺でも義兼が造ったそうで現在復元中です。

Dsc_0066 足利氏御廟所跡

発掘調査で南北20.4m、東西6.5mの基壇が確認されその上に五輪塔が10基並べられていたそうです。その上に瓦葺の覆屋が建てられていたとか。
足利氏歴代の供養等だそうで神仏分離令の時に光得寺に移されたそうです。応永20年(1413)鎌倉公方の足利持氏によって整備されたと考えられえるそうです。

樺崎八幡宮は人気が無く・・というか私1人しかいなく少々怖かったです(^-^;
駅からも遠く行くのは大変かもしれないけど歴史好きなら行く価値ありますよ!!
以上、足利氏発祥の地の足利市でした。

足利氏発祥の地 其の一 鑁阿寺

2015年8月 9日 (日)

足利氏発祥の地 其の一 鑁阿寺

栃木県足利市に行ってきました。数年前にも行ったので2度目です。
足利市と言えば室町幕府を開いた源姓足利氏の発祥の地です。現在でも足利氏に関する史跡も残りなかなか趣があります。都心からも近いのでお勧めです。

Dsc_0068 一般的に足利氏と言えば室町幕府を開いた足利尊氏公ですね。
個人的には平安・鎌倉時代の足利氏が好みです。足利氏が発展するきっかけを作った足利氏二代義兼公や更に勢力を伸ばした三代義氏公の銅像があっても良さそうな気がします。尊氏公は足利市とあまり縁を感じない気がしますがね。

Dsc_0069 鑁阿寺です。足利氏宅跡と呼ばれてますね。鑁・阿とはバン ア、バンナと読、梵語で大日如来を意味します。足利氏二代目の足利義兼公が晩年に出家し法名を鑁阿房義称(ぎしょう)と名乗りました。高野山で修行し自邸の持仏堂を建てたのを元に三代義氏公が寺に造り替え父の法名・戒名から鑁阿寺になりました。写真は太鼓橋と山門。

Dsc_0078 方形の敷地に濠と土塁を巡らし東西南北に門を造る鎌倉初期の武士の邸宅を残していると云われております。日本100名城にも選ばれていたりします。

ここで少し足利氏についてつらつらと。 足利氏の祖は源義家(八幡太郎義家)の四男で乱暴狼藉で京都から坂東に流れてきた源義国から始まります。義国から河内源氏の伝領である新田の地を長男の源義重に相続させ、足利の地を次男(三男とも)の源義康に相続させます。

義康は足利の地を鳥羽上皇が建立した安楽寿院に寄進し足利荘を成立させ下司職になり鳥羽上皇との繋がりから中央(京)へ進出、保元の乱等で為義流の盟友源義朝と共に活躍しますが若くして病没しました。一般的には初代足利氏は義康と云われてます。

Dsc_0073

Dsc_0077足利氏居館は義国、義康の時代にかけて造られたと云われております。
現在も残る土塁と濠が美しいですね。

Dsc_0084 鑁阿寺の本堂、大御堂です。正安元年(1299)に三代足利義氏によって建立されました。国宝に指定されております。鎌倉時代の建築で貴重ですね。

Dsc_0093 多宝堂

Dsc_0102 中御堂(不動堂)と奥は本堂。昔は渡り廊下で繋がっていたとか。

Dsc_0099 経堂

足利氏は二代義兼の時に大きく飛躍します。治承四年(1180)以仁王が挙兵し全国に令旨をばら撒き所謂、治承寿永の乱(源平合戦)が始まります。そして源頼朝が旗揚げに駆けつけた義兼公は信頼を得て源氏の御門葉(血縁・家族)として重用され活躍し勢力を伸ばしました。頼朝の父である義朝と義兼の父の義康は熱田大宮司家の藤原季範の娘二人を正妻にしており相婿の関係にあり、元々頼朝と義兼の関係深かったと云われております。
頼朝と義兼も北条時政の娘を正室にし(頼朝は政子、義兼は時子)こちらも相婿となりました。その時子が亡くなった時に供養の為に一切経堂の道場として義兼公が建てたのが経堂と云われてます。現在の建物は応永十四年(1407)室町時代に足利満兼により再建されたそうです。

Dsc_0104 西門

鎌倉時代の創建と云われているが永享四年(1432)公文所奉行の再修だそうです。

Dsc_0108 御霊屋

鎌倉時代創建だが現在の建物は徳川家斉が寄進。源義国、源義康のお墓があるそうです。

Dsc_0110 大酉堂

足利尊氏を祀るお堂で室町時代の建立されたそうです。

Dsc_0113 校倉

校倉(あぜくら)と読みます。元々は宝物を収蔵する倉だったそうだ。その後足利家伝来の大黒天を祀っているそうです。

Dsc_0114 蛭子堂

経堂にも書いた義兼の正室である北条時子を祀ります。時姫堂、時子の法名から智願寺殿ともいうそうです。創建年代は不明だとか。足利には時子にまつわる悲しい「蛭子伝説」が伝承しおります。

井戸の水を飲んだ時子の腹が膨れて妊娠した様になりました。不義密通を疑った義兼は時子を疑い時子は自害して疑いを晴らしたそうです。時子の腹から大量の蛭が出たとの伝説。義兼は大いに嘆き悲しんだそうでうす。
現在は妊娠した女性が御参りすると安産になるそうです。

J_dsc_0117 長らく伝承とされていたけど昭和の初めに法玄寺(智願寺)で鎌倉時代の物と思われる五輪の塔が見つかり 伝承に事実が含まれているのではないかとの話になりました。
写真は四年前に撮影さいた法玄寺の時子の墓と推定されるお蛭子さまです。

Dsc_0119 北門

薬医門の形式ですね。江戸末期に移築したそうです。

Dsc_0124 東門

正和年間(1310年代)鎌倉時代の築です。

Dsc_0129

Dsc_0127 鐘楼

建久7年(1196)義兼建立だそうで国宝です。鑁阿寺で一番古い建築物でしょうか。
室町、鎌倉時代の建築物が多く残ってる貴重なお寺ですね。

つづく
足利氏発祥の地 其の二 樺崎八幡宮

2015年6月13日 (土)

福井市内をブラブラ

福井旅行の福井市内編です。

初日は移動と永平寺、二日目は丸岡城と福井城で3日目はどこに行くか迷いました。
予定では朝倉氏の一乗谷城に行くつもりでしたがが雨との予報でしたので雨の中で山城は厳しい!って事で諦めました。また福井に行く機会があったら行きたいですね。
もう一つの案は福井県立恐竜博物館ですが平日だと交通が厳しい
(バスが無い)って事で諦めました。3日目は帰宅の電車の時間もあるので無理は出来ません。
結局、雨の中の福井市内をブラブラする事にしました。

Dsc_0809 まずは福井市立郷土歴史博物館に行きました。
!!(゚ロ゚屮)屮おぉ・・ヱヴァンゲリヲンと日本刀展がやってました。若い娘さんが多く見に来てましたよ。

Dsc_0772 そういえばネットのニュースでロンギヌスの槍を見た事がありました。福井市立郷土歴史博物館での展示だったんですね。生で見ても中々の迫力でした。
常設展示も福井の古代から近代までの歴史が分かりやすく面白かったです。
福井は古墳が多く古代から栄えていたんですよね。

Dsc_0805

Dsc_0806 福井城の復元舎人門近くに江戸時代の上水道の跡もありました。当時は武家屋敷が並んでたとか。

Dsc_0810 福井市立郷土歴史博物館を見終わった跡に近くの養浩館庭園に行きました。松平家の別邸で御泉水屋敷と呼ばれていたそうです。現在の姿になったのは7代藩主松平昌明の頃だとか。回遊式の大名庭園でした。

Dsc_0829 雨が強くなってきたので急いで周り屋敷内へ避難しました。雨の庭園を眺めるのも中々風流で良かったのでしばらく庭を眺めてました。

Dsc_0818 お屋敷は空襲で焼けたそうで復元です。書院造の部屋は中々居心地も良かったです。

Photo お昼は越前そばを頂きました。餅の天麩羅が乗ってるのを注文しました。大根おろし入りの汁と餅の天麩羅が合わさって美味しかったです!!。旅行で行く先々で蕎麦を食べてますが越前そばは自分の中で上位に入る美味しさでした。他では松江で食べた出雲そばが印象に残ってますね。

Dsc_0836 お腹を満たした後は北の庄城址・柴田公園に行きました。福井駅からも割と近くにあります。

Dsc_0833 柴田勝家が築いた北ノ庄城天守の想像図です。北ノ庄城は柴田氏の滅亡後に結城氏が大規模に造り直したので遺構は殆ど失われているそうです。宣教師のルイス・フロイスや数少ない武将が残した記録なが元なのでどこまで正しいのかは謎です。小早川隆景が残した九重の天守との記録はどうなんでしょうかね。

Dsc_0838

Dsc_0855 北ノ庄城(柴田氏)時代の数少ない遺構です。石垣が少し並んでるだけですね・・。

Dsc_0844 こちらは公園内にある柴田神社下にある福井城の石垣の名残だそうです。

Dsc_0845

Dsc_0842 柴田勝家の像です。尾張で生まれ織田家の家臣になり信長公の家臣になり活躍。朝倉氏滅亡後は北ノ庄を与えられ北陸方面の織田軍団の指揮官になるが本能寺の変後に秀吉と織田家の跡目をめぐって敵対。賤ヶ岳の合戦で破れ北ノ庄城で自害しました。

Dsc_0858 柴田勝家の妻のお市の方。信長公の妹ですね。北ノ庄城落城時に自害しました。

Dsc_0860 お市の方の子の三姉妹。父は浅井長政ですね。左から茶々(後の淀殿)、江(二代将軍徳川秀忠室)、初(京極高次室)。浅井三姉妹なんて呼ばれたりもしますね。江は大河ドラマにもなりました。それぞれ数奇な人生を歩みました。

Dsc_0874 福井駅は恐竜推しです。動く恐竜が見られますよ!。左からフクイラプトル、フクイサウルス、フクイティタンだそうで福井は恐竜の化石が多数発掘されてるんですね。福井県立恐竜博物館行きたかった・・。

以上2泊3日の福井旅行でした。大野城や一乗谷城も行きたい。白山も行きたい。また福井に行きたいですね。

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